トントさんと言葉のデッサン

人生で出会ういろいろな事を日常の言葉で描きたいと思っているブログです。

物事には3つの側面がある  (ドラマ「エージェント・カーター」)  

心に響いた映画のセリフ(6)です。

 

◎「物事には3つの側面がある。本人の言い分、相手の言い分、そして真実だ。」
 There are three sides to every story, Mr.Jarvis. your side, my side, and the truth.

このセリフの後には、こう続いています。

Tell Stark I’m not interested in any witch hunt. I just want to get to the truth.
If he’s willing to tell his side of the story, I’d really like to hear it.

                  ドラマ「エージェント・カーター」より

                 (セリフは、ビデオ字幕からです。)

 

 これは、ドラマ「エージェント・カーター」の中で、カーターが所属する政府情報組織のヘッドが、スタークの秘書ジャーヴィスにいうセリフです。

 物語は、スタークが無実の罪でこの組織の追求を受け、行方をくらませている。この上司はスタークが犯人ではないと考え始めています。

 ちなみに、スタークとはアイアンマンのお父さん?

 それと、カーターとは、キャプテンアメリカの恋人だった女性情報員のこと。

 

 このセリフで、どんな感慨を持つかは、人それぞれだと思います。

 〇私の場合は、次のようでした。(少し面倒くさいのですが)

           

                  f:id:tontosan:20160529175129p:plain    

               (ある公園にて)

 〇はじめの考え

・まず、3つの側面によるそれぞれのストーリは、どれも、話としては矛盾なく完結しているだろう。

・なぜなら、それぞれは、その立場から見えた事情をもとにそれぞれの物語を作っている。

 そして、その立場から見える事情を前提に結論を導く。だから、その考えの進行において生じる間違いは、自分でも気がつきやすいはず。であれば、間違いは容易に防いでいるはず、

 そんなことが、まず頭に浮かびました。

〇そう考えると、次の点が疑問となってきます。

 - では、この3つにおいて、何が異なっているのか?

 - どれかが、正しい、間違っているか、という議論はできないのか? 

 

〇私の考えでは、最初の疑問への答は、

・「現実のどの範囲、どの程度が、それぞれのストーリの根拠になっているか」が違うのではないか。

・自分の立場から見える事情か、もう一人の立場から見える事情か、あるいは、どちらからも、そして第三者からも見える事情か、という違いではないか。

 というものです。

〇そうすると、二番目の疑問については、次のように考えることができます。

・だから、自分のストーリが「間違っていた」と感じる場合があるとすれば、それは「最初から気がついていれば、それを考慮したであろうような現実の側面を見落とすか軽視して、部分的現実だけで話を構成してしまった」と気がつき、「事実と違っていた」と自覚する時ではないか、と。

・つまり、現実との照合の程度が問題だと考え、現実と合致していなければ、間違いと考えるわけです。

(※ ここで、現実とはどう理解すべきか? が更に詳しく問われるべき問題ですが、ここでは常識的なイメージのままで先に進みたいと思います。) 

〇まとめれば 

どのストーリも正しい。ただし、筋の運びという意味で

・しかし、筋の運びの正しさは、現実の全体とマッチしたストーリであるかどうかを保証してはいない。つまり、事実であるかどうかは保証されていない。

 となります。 

〇そうすると、更に、次のように考えられます。

 ・私や相手のストーリは、事実と合っていなくても、話として「もっともらしく」完結することができる。

・それをチェックできるのは、現実の見落とされた側面、隠されている側面に対する感覚しかない。いわゆる自然科学の実験は、まさしくこの作業を行っている、と言ってよいのではないか。

重要なのは、話のもっともらしさ、わかりやすさ、ではない。

 現実において、見落とされた側面、気がつかなかった側面がないかどうかという点である。

・ある前提から結論までの運びの間違いは、自分でも気がつきやすい。

 しかし、何か見落としている現実の側面があることに気がつくことは難しい。

 何しろ、自分には見えていない何者かに気がつくことなのだから。

〇最後に、次の疑問にもこたえておく必要があるでしょう。

 - では、どうすれば、見えないものに気がつくなどという事ができるのか?

 - なぜ、そこまでして見えにくい現実の側面に注意しなければならないのか?

〇最初の疑問についてはこう考えました。

・日常生活において、気がつくことが可能となる機会の一つは、多様な人の意見によって与えられるのではないか。

・個人の能力はおのずと限界がある。多様な意見から見落とされた現実の側面に気付くことができる

  この他にも気がつかなかった方法があるかもしれませんが、とにかく、こんな風に考えました。

 〇二番目の疑問については、こうです。

・それは、意識的にしろ無意識にしろ、現実の一方の側面に注意を集中させ、他の側面が見えなくなる類の話が日常生活に多い中で、それに惑わされないで済む。

・それは、単に惑わされただけでは済まないはずだ。見落としても、あるいは目をつぶっていても、対処を誤った現実の側面は、確実に影響を及ぼしてくるはずだから

 

(以上)

 ここまでで、自分の一連の感慨と疑問は整理したつもりですが、気がつかない点はきっとあるはずです。これは、いわば理論編で、実際上は、一方に注意していると、いつの間にか背後がおろそかになってしまい、現実のもう一方の側面を見落としてしまいますがちなのが、世の常のように見えます。

 その理由については、別の機会にしたいと思いますが、ともかく理論と実践は違います。

 自戒していくしかありません。