トントさんと言葉のデッサン

人生で出会ういろいろな事を日常の言葉で描きたいと思っているブログです。

車は目で運転するもの。英語は口で聞くもの ?!

「車は目で運転するものだよ。」

もう数十年前に、自動車学校の教官が教えてくれた言葉。

手や足で動かすならわかるが、それを目で動かす?!

どこか宮本武蔵五輪書とか、禅の書の一節にでも出てきそうな言葉。

車を運転できる人への畏敬の念に、言い回しの妙が重なって、ひどく感心したのを覚えている。

もちろん、一人で運転を始めたばかりの頃は、頭はパニック状態で、「こういう場合にはこうする」と書かれた十数行のメモを見ながら一つひとつ動作を行ったものだ。

頭の中は、言葉を思い浮かべ一つひとつ意識的に行う処理に手いっぱい。

とても同乗者と会話したり音楽を聴く余裕などなかった。

今では、私の身体の中では、目からはじまって車を動かすまでの動きが、一体となって自動化されている。その間、頭は余裕だ。

その動きの最初に位置するのが「目」による確認であり、目で認識すると同時に瞬時に手足は勝手に動き、車も動いている。

私たちは、何かを継続的に同じ動作を行うことで、やがて環境、道具、身体を自動的一体的に運用することができるようになる。そして、それまでは簡単にできなかった動きを造作なく自然にできるようになる。

これは、身体が持つ最も優れた能力の一つだと思う。何か新しく技術や能力スキルを身につけたければこの能力をうまく使うことが大切だと思う。

この環境、身体、道具を一体的に統合化する能力に気がつかされたもう一つの経験がある。

それは、「発音できない言葉は聞き分けもできない傾向がある」という音声学の教科書の言葉。

私は、今、英会話の勉強を音読中心に行っているが、このことを実感している。

音読を始めてから、少しずつ聞き分けられる言葉が増えてきた。それは、口の筋肉の動きの習熟とその動きで生じる音を耳で聞くことがセットになった回路が身体内にできるような感覚とでも言おうか。

そこで、自動車学校の教官にならって、「英語は口で聞くものだ」と考えるのも悪くない、と思い始めている。

車を直接動かすのはもちろん手足、目ではない。

英語の音を聞くのはもちろん耳。口ではない。

しかし、私たちの身体は、耳や口や手足と目がそれぞれ別個に機能している訳ではない。身体とは、そもそもそうしたものが連動しているもの。いや、むしろ、目だの口だの耳だのと分けて考えるのは、言語コミュニケーション上の都合から、後で私たちが名付けたもの。身体はもともと一体である、という見方の方が身体を動かす上の実態にあっている。

頭で(つまり実践してみない段階で)考えると、「英語聞き取りには、何回も耳で聞けばよい」と普通に考える。

しかし、実践経験が教えてくれる方法は、聞き取れるには、まずそのとおりの速さで口で発音してみなさい、ということになる。「聞く」と「発音」の連動であり、単に「聞く」だけではない。

どうも、最初の頭の考えは、言葉の区別にこだわり過ぎた結果のようだ。言葉を意識しすぎるあまり実態を見ることに注意がいかなくなっている。その意味で、「実践してから考える」ということは、現実を知るには不可欠のことかもしれない。

ともかく、車の運転や、英語の勉強によって、私は、身体の持つ統合的な働き、という今まで頭があまり意識していなかった現実に目を向けることができ始めている。

これで、英語が聞き分けられるようになると良いが、これはあくまでもトレーニングのレシピ。トレーニングの継続が必要だ。

早く車の運転のように、自動的に英会話ができるようになりたい、と思っている今日この頃です。