トントさんと言葉のデッサン

人生で出会ういろいろな事を日常の言葉で描きたいと思っているブログです。

「置かれた場所で咲く」ということについて

私は、毎日のように、近くの駅ビル商店街にいく。エスカレータを下りたところに少し小さなスペースがあり、ほとんど週替わりで店が出店されている。エスカレータに乗って下るにつれ、視界に入ってくるそのスペースで今日は何の店があるのかと、目をやるのが習慣になっている。

先日までは、ある産地の食品の店が出ていた。今日は、なにやら健康相談のスペースができていた。

「いやー、小さなスペースだけど、工夫しているなあ。」

新たにできていた健康相談の店を見て思った。いつも見慣れていたはずなのに、なぜ、今日に限ってそんな想いがよぎったのか。

実は、先日、近くにできた大型商業施設に行ったのだ。

私のいつも利用する駅から、更に二つ先にある大きな駅にできたものだ。もともと、新しいもの好きな私は、出来たばかりのその施設に早速行ってみた。その新しくきらびやかで広々とした施設は、日本中の人がきているのではないかと思うくらい、人でいっぱいだった。

いつもの我が駅ビルも、この近辺の中心地で人通りも多い。私の生まれ故郷の田舎町に比べればほとんど大都会の賑わいだ。しかし、新設の大型の商業施設は、それを上回った賑わいと広さ、目新しさ、きらびやかさにあふれていた。

我が駅ビル商店街は、それに比べると、やはり派手さはない。

でも、そこには、気取らない暖かさ、安心感がある。

「大きくて新しいきらびやかさ」と、「小さいけれど気取りのない懐かしい温かさ」。この二つを求める相反した気持ちがともに自分にあることを感じながらわが商店街を見ているうちに、ふと、『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子氏)というあの本のタイトルが浮かんだ。

我が駅ビル商店街は、与えられた空間、周りの条件を精一杯に活かそうと工夫している。一生懸命に考える、工夫する、という営みは、こういう制限の中でこそ生まれるのではないか。そして、人生の味わいも、この営みの中で初めてわかるのではないか。

そんな考えが浮かんできた。

新しく作られたきらびやかな施設でも、テナントが入って実際に使いはじめると必ずデッドスペースや不便な箇所が現れてくるものだ。

その不具合についてどうするか。しばらく我慢するか、ごまかすかして、何十年か後に、また、新しい施設を作ればよい。そういう形の解決法を思い浮かべる。

しかし、我が駅ビルのように、与えられた条件を活かしていくことをとことん突き詰める方法もあるのではないか。

どちらがよい、と言うつもりはない。ただ、与えられた条件を生かしていく方法には、きっと「工夫する」という頭の使い方が必要だろうな、と思う。

いつも、新しいものを作る、新しい物を買う、というように、今までのものを捨てて条件そのものを新しくする方法に慣れてしまうと、与えられた条件をいかに活用するか、という頭の使い方が育たたないままになってしまうのではないか。

それは、決して良い事ではない。なぜなら、世の中、無条件で好きに始められる環境などない、いつでも、何等かの条件があってその中でどうするかが問われる、と思うからである。

自分の中で、心の二つの傾向、誰かが今の環境をガラッとリセットしてくれるといいのに、という気持ちと今の状況を受け入れて具体的にそれらを生かして目的を実現していくべきだ、という気持ちが葛藤している。

どんなに器を新しくしても、使ううちに不具合は必ず出てくる。どこかで、立ち止まってその不具合と向き合って工夫しければ、不具合は永遠に続く。また、味わいもでてこない。

結局、人生の意味を知るには、不具合を少しずつ変えながら、「置かれた場所で咲く」ために「工夫する」という気づきと忍耐が必要なのではないか。

形から入ることも大事だが、いつも形を新しくすることばかり気にしていると、与えられた形を生かして機能内容を実現していく能力が未熟になってしまうリスクがある。

 

そんなこんなで、我が下町風の駅ビルの商店街のひたむきさを、更に応援したくなった。

そういえば、先日ある観光地の公園に行った。そこには、「元」噴水池が水を枯らしたまま寂しそうに佇んでいた。本来の機能を行っていない施設というのはどこか虚しさを感じさせる。

気のせいか、そのように使われずにいつのまにか放置されている施設が目につくことが多い。常に新品を求めているうちに、与えられた制限の下でとことん工夫する力が衰えてしまったのではないか、そう思いたくなってしまう。

 

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