トントさんと言葉のデッサン

人生で出会ういろいろな事を日常の言葉で描きたいと思っているブログです。

なかなかうまくいかない! から始める

最近、英語の音読をやっている。

教材は、NHKおとなの基礎英語書籍版シーズン1の「美佳のひとり旅」、英語の文章と日本語の文章が見開きになっているものだ。

だいたい毎日、声を出して読む。

以前は、英語部分を見ながら声を出して読む方法を続けていた。

途中から、見開きの一方の日本語部分を見て、英語部分を見ないで空で言うようにした。これを何回か繰り返す。最初は、いちいち英語部分を見て確認しながら進むが、何回か繰り返すうちに、英語部分を見ないでも言えるようになる。1時間で調子がよければ5回くらい繰り返すことができる。今は、だいたいそれが集中力の限度。

 

その時、理屈ぽい習性の私が考えることは、こんなことだ。

まず、いちいち英語部分を見なければならない最初の回はつらい。

時間がかかるし、なかなか進まない。頭も疲れる。でも、だんだん回を重ねるごとに滑らかにできるようになるのも実感できる。

何かで、聞いたことがある。

このように、なかなか進まない時こそ、身体がその作業に慣れて身に付けようとしている時なのだ、と。だから、そこを我慢して続けることが必要なのだ、と。

この「なかなか進まない段階」をどう考え、我慢して乗り越えるか、が分かれ道だった。

そう思うようになったのは最近のことだ。

つまり、こうだ。

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何か新しいことを始めると、必ず「なかなかうまく行かない、面倒くさくて進展しない段階」に最初に出会う。それは、おそらく多くの人がそうだ。

その時、その状態をどう考えるか、によって二つの道がある。

第一の道

うまくできないのは、自分の能力や精神力がないから、と考え、続けることをやめてしまう方向。

この時、考え方としては、人の性質や能力をかなり固定的に見ている。また、そのように固定的に見る理屈の世界がすべてであって、身体の複雑な世界が独自に動いているということには関心がいかない。

第二の道

うまくできないのは、はじめだから当然のことで、今このように面倒な感覚になっていることは、身体が新しい状態に適合しようと頑張っているサインなのだ、と捉える考え方。

こちらは、人の能力や性質を、可変的、可塑的なものと考えている。我々は、意識の理屈を越えた動きを持つ身体を持っている、というイメージも持っている。

振り返ると

若い頃の私は、何かをはじめて行って、なかなかうまく進まない。そうすると、自分の能力のなさや怠け根性のせいかとか、やり方が悪いのかもしれないと考えて例えば英語の本をあさることに時間を費やして、結局、やめてしまっていた。他人との比較がそうした考えを強めていたし、性急に成果を求めて焦ってもいた。そして、結局、第一の道に進んで停滞の道を歩んだのだ。

問題は、

第一の道は、今から思えば確かに表面的だが、ほおっておくとその考えに流れやすい自然で常識的な考え方でもあるという点だ。つまり、その道に進みやすい傾向性が私たちにはあるということだ。

だから、「なかなかうまくいかない」感覚というのは、私たちの傾向性を利用して、そこであきらめるように誘導する一種のトラップでもあったのだ。

おそらく、その時点で、第二の道に行くことができた人は、そうした傾向性に流れないような指導やしつけをすでに受けていたのだろう。

スポーツアスリートの世界には、

練習のやり方、身体の調整の仕方について、専任のトレーナーがいて、方法論や考え方を教えてくれる。映画「クリード」でもシルベスター・スタローンがやっていた。練習そのものは、本人の責任、身体能力によるが、そのやり方・考え方でだいぶ結果は違ってくる。

スポーツに限らず、すべてのことは、これと同じように思う。才能はともかく、適切な方法・考え方と出会えるかは、結果を大きく変える。

才能もなく、専属指導者もいない私には、調べて試して、自分で自分をトレーニングしていくしかない。

こんなわけで、

私は、今、第二の道を進んでいる。まだ結果は出ていない。

でも、続けていくつもりだ。なぜって、第一の道は、既に実験済だからだ。