トントさんと言葉のデッサン

人生で出会ういろいろな事を日常の言葉で描きたいと思っているブログです。

天才にも努力は必要。努力は格好良い。

 先日、たまたま、スイッチをつけたラジオで聞いた日本サッカー選手の話に感心した。

話の大筋は意訳すればこんな感じ。(誤解があったらごめんなさい。)

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 選手には、天才肌の人と、努力型の人がいる。天才肌の人とは、誰が見てもすごいと分かるような人。

 しかし、そのような人も伸び悩む時がある。そして、ふてくされてしまう。そうこうして天才肌が活路を見いだせないでいる間に、努力肌の人に追い越されてしまう。

 日本ではそのケースがほとんどだった。

 しかし、天才肌の人が、ふてくされを越え一皮むけてその豊かな才能を十分に発揮させなければ、真に世界で戦えるようにはならない。

 それには、限界に突き当たった時に、自分を客観視することが重要。

 しないでもよいと思うことをあえてする人はいない。でも一皮むけるためには、底を変える必要がある。ばかばかしいと思うことでも行なわなければならない事がある。それには、自分を客観視して、必要なことは何かを知り、今までの自分には必要がないと思っていたことでも、謙虚に行う姿勢が必要。

  ※ NHKラジオ第一放送「すっぴん」平成28年5月30日(月)放送(「スポーツ自由型」のコーナー)の中で、スポーツライター清水英斗氏の話

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そこで、私が思ったこと。

 そもそも、「天才」という概念に「努力する」という意味はなじまないと思われている。天才と努力型とは、別のあり方と理解されている。

 誰でも自分が「天才肌、才能がある」と言われたらうれしい。そこには「汗臭い努力をしないでもすごいことができるなんて格好良い」というイメージが重なっている。

 でも、真の一流になるには、その考え方を変える必要がある。

 - 天才にも努力は必要。

 - 努力することは「格好悪く」ない。格好良い

   

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                                 (あじさい)      

1)天才にも努力は必要。

 天才肌は、さして努力しないでも周囲に注目されるパフォーマンスを発揮できる。

 でも、そんな天才肌も例えば、周囲との調和とか、あるいは上には上がいるとかの状況によって自分の思い通りにならない事は必ずあるはず。

 そんな時には、更に才能を伸ばそうとすれば、自分の不十分な点を知る必要とか、努力をすることが必要になる。

 ところが、天才肌の人は「したくもないことをする」つまり「努力をする」ことに慣れていない。あるいは、努力する事をばかばかしいと考えがちだ。今まで、したくないことをしないでも成果を出すことができたのだから、それは当然だ。

 つまり、天才肌の人ほど、逆に、努力することに向けた心のハードルは高いことになる。それを切り替えることができるかどうか。それに気がつくかどうか。天才肌が一皮むけるかどうかの分かれ目となる。

 ひょっとして、日本では、今まで、こうした才能豊かな天才肌を更に伸ばすという発想と方法論が足りなかったのかもしれない。(サッカーに限らず)

2)努力することは「格好悪く」ない。格好良い。

 限界は、天才肌であれ、凡才であれ、平等にやってくる。

 限界を超えて、持って生まれた才能を更に発揮するために使える方法は、努力しかない。継続した努力は、どんな人の能力でも確実に変化せさていく。

 それにもかかわらず、努力を軽視するのは、どこかで、自分には才能があると思いたい気持ちがあるからか、それとも、努力することを格好悪いと思うためか。

 誰でも自分が「天才肌、才能がある」と言われたらうれしい。そこには「努力をしないでも格好いい」という意味がある。

 考え方を変える必要がある。天才にも努力は必要。そして。

 努力することは「格好悪い」ことではない。

 井の中の蛙の得意から脱皮にして、真の一流になるために、努力は不可欠のことだったのだ。

 「ひょっとして自分は天才かも」と思う瞬間は誰にもある。でもその記憶を、努力をしない言い訳にしてしまう、のはもったいないことだ。

 

 (追伸)「自分には才能がない」と思う事も多い。いや、その方が多い。でも、それだって、勝手な「思い込み」には変わりない。努力をしない言い訳にすべきではない。自分のためにも。