「生きる」を整理する3つの箱
最近、私は頭の中に「生きる」を整理するための頭の整理箱を作ってみた。
その箱の名前は、「動くこと」「食べること」「寝ること」だ。
〇私たちの頭は
時々分からなくなることがある。生き方が。
いろんな事が「ごちゃごちゃ」になってしまうことがある。
何が重要で、何が瑣末で、なにが重要なのか。
生きることの意味と内容を整理したくなる時がある。
そして、せめて、一日が終わって寝る時には、今日はこれだけはやった、やることは
やったのだから、安心して寝よう。そう思いたい、という時がある。
〇でも
どんな事をしていれば自信を持って「今日もよく生きた」と言えるのか?
漠然とそんなことを思っていた時、
数羽のスズメが田舎の電線に停まってチュンチュン鳴いていㇽのが窓越しに見えた。
しきりに頭を動かしている。
生きている彼らは何をしているのだろう。
動いているのは、食べる餌を求めてのことだろうか。とにかく、動いている。
そして、夜中はどこにいるのか。竹藪や木々の茂みの中か?でも寝ているはずだ。
生きとし生けるもの、みなそうしている。
その時、そう、この「動くこと、食べること、寝ること」は、おそらくどんな生き物も行っている事だ。この3つのこと「動くこと、食べること、寝ること」は、「生きることの基本形」といってもよいのではないか。そう思いはじめた。(※1)
〇そして
生き方そのものをどう整理してよいのか分からなくなった時の最初の枠組みとして使うことができそうだ、と。
「今日も有意義に生きた」と言えるための日課あるいは努めと言い換えてもいい。
これさえ行っていれば、とりあえず誰からも文句を言われずに胸を張って「生きている」と言える。
そう思ったところで、頭がいくらか整理できたような気がした。
「生きてるだけで大体OK」と言う言葉を聞いたことがあるけれど、その内容が私なりに理解できたように感じた。
どんな時も、この3つだけは、とにかく、きちっとやろう。
中味は、その時その時、でこぼこがあっても。それが「生きる」という事だ、と
(東京 旧芝離宮庭園にて)
〇当然
3つの事には、その内容にバリエーションがある。
3つの事を表す言葉は、具体的行いを整理しておく入れ物に付けた名前のようなものだ。
私たちには、このバリエーションを追及し実現できる自由の余地がある。
後は、その状況に応じて、3つの内容を人それぞれ充実させていけばよい。
とことん元気がなくなった場合には、頭を働かせたり、手足を動かす、息をするだけでもいい。
何であれ、今日は一日、この3つをしたのであれば、生きることの努めは果たしたと言える。
安心してよいのだ。
そして、元気になったら、その内容については、人ぞれぞれの状況に応じて、創意・工夫によって自分なりに挑戦すればよい。
この3つの頭の箱の中に、何を入れてどう育てるかは、各自の自由なのだ。(※2)
〇ともかく
私たちは、鳥や他の動物たちすべてと同じように、生き物として祝福されている。
何もできないと恥じることはない。元気になったら、また動きだせばよい。
置かれた状態で動けばよい。「動くこと」の内容を充実させていけばよい。
どんな偉い人も、つまるところ、この3つをやっていることに変わりはない。
(追記)こんなわけで
私の場合、この3つの箱を用意して「生きる」を整理し始めた。
ただ、「動くこと」の中は範囲が広すぎるので、中を更に分割する箱が必要だと思っている。どんな箱をいくつ用意するとよいのか、まだ分からない。
それと、「動くこと」に比べて、後の二つが具体的過ぎることが気になる人もいるかもしれない。しかし、それだけ、「食べること」と「寝ること」が重要だという意味も込めている。
そんなわけで、今のところ、なかなか気に入っている。
どんな箱をいくつ用意するかは、人によって違うかもしれない。
しかし、誰でも何かの整理箱を用意することは必要だろう。
機会があれば、他の人の箱について話を聞いてみたい。
(※1)
植物は動かないよ、という意見もあるかもしれない。
だから、身体の中での動きも含めることにしよう。
そう考えれば、人が頭の中でいろいろ考えるのも「動くこと」に含めることもでき
る。ちなみに、トイレや愛の行為も「動くこと」に含めて見た。そこは、自分で覚
えておけばいいので柔軟だ。
だから、とりあえず、すべての生き物が行っていること、と言える。
(※2)
「動くこと」にも、例えば、弱い者いじめはいけない、など最低限の条件がある。
「食べること」にしても、やり方がある。楽しみ方、心構え、など必要だ。
「寝ること」ことにも、質の違いとそれに応じた工夫の余地がある。
どちらも、その細目に立ち入ると、大部の本が何冊も必要になるだろう。