トントさんと言葉のデッサン

人生で出会ういろいろな事を日常の言葉で描きたいと思っているブログです。

日本一になりたいなら世界一を目指せ

ポココ

 いつの間にか、桜も緑になって花水木の時期になったわね、おじさん。

 調子はどう?

トントおじさん

 お、ポココさんか。またまた久しぶり。まあまあだよ。ところで、今日は、「日本一になりたいなら、世界一を目指せ」という話をしてみよう。

 

 運動や試合やテストなどで一番になる、というイメージは誰にでもあるだろう。

 戦国時代の昔、中国地方に勢力をもった毛利元就という武将の逸話がある。「中国地方を平定できますようにと祈った」という部下に対して、「日本を平定するつもりでいれば、中国地方も自然と平定できる、中国地方を平定したいという願いではどうして中国地方を平定してよいのかわからない」という趣旨のことを言ったという話だ。(もちろん、中国というのは、海の向こうの国のことではなく、日本の中国地方の話だ。)

 また、これは私の経験だけど、「職場でよい仕事をしたいなら、ひとつ上の上司の立場になって仕事をするとよい」と先輩からアドバイスをもらったことがある。

    この二つの話は、どう理解したらいいのだろうか。

 そもそも、中国地方という自分の周りを平定しないと、日本の平定はできない。だから、中国地方の平定を最初の目標にするのはごく自然な話だ。

 また、職場で例えば、係長になったら、「もう係員ではない。係長としての自覚をもって仕事をしなさい。」と言うアドバイスの方が普通に聞こえてきそうだ。

 おじさんは、最初に聞いた時、これを成功する人や偉人と言われる人のスケールの違い、気迫の違いとしか思わなかった。でも、今は、これには具体的・実際的な意味もあると考えている。

  例えば、日本のどこでも、我が町や村、市を「日本一の~」にしようと考えて頑張っているところは多いだろう。でも、期待通り実現しているところは多くないように見える。

 もしそうなら、その理由は何かと、考えてみた。

 第一に、日本一を目指すのは、自分たちだけではない。みんなが目標としている、ということ。

 第二に、日本一という目標では、構想やアイデアの発想が日本に限定されてしまう。それを超えた発想については自然と思考が停止してしまう。実際、具体的な様々な面で日本と世界はつながっているのに、世界に関わることは日本一という目標の後にやってくる次の課題として発想の範囲から出されてしまう。でもその中に日本一になるために必要な材料があるかもしれない。

 こういう状況で、皆が同じように日本一を目指す結果、構想やアイデアがどこでもあるもの、誰でも考えそうなものになってしまう。しかも競争率も高くなっている。

 「日本一」という内容自体はオンリーワンの事に違いないが、「それを目標とする」という事は誰でもする事、誰でも考える事だったという訳だ。

 誰でも考える発想でみんなが競っているとすれば、簡単にそこから飛び出て日本一になれるわけがない。

 だから、皆と違うことを考えようとするなら、皆が考えない「世界一」を目標にしなければならない。他の町や村が考えない目標を掲げなければ、日本一にはなれない、という理屈だ。

 毛利元就の話も、会社でひとつ上の立場で考えるということも、単に気迫以上の意味がある。それはどうも発想の持ち方に関係している。

 一流・一番に、本当になるつもりなら、競争メンバーの誰もが発想する目標を掲げるのは上策ではない。誰でも発想する目標を掲げる事は、例えそれがメンバー内で一番になりたいという至極当然の内容であったとしても、その普通さから「一流の目標」とは言えない、という事だ。

  これが、「日本一になりたいなら日本一は目指すな、世界一を目指せ」という意味だ。

 上の二つの話から得られる教訓は、「誰でも望むようなことを目標にしている間は、真の一流にはなれない。」ということではないかと、おじさんは考えている。

 さて、今回は、少しこじつけっぽい話になってしまったような気もする。

 ひとつの考え方として聞いてね。

ぽここ

 おじさんの話、深いような気もするし、そうでないような気もするし、何か「突っ込み」ができそうな気もするしね。まあ、思いついたら言うわ。じゃあ、またね。