トントさんと言葉のデッサン

人生で出会ういろいろな事を日常の言葉で描きたいと思っているブログです。

ゼノンのパラドクスと「日本一」?

ポココ

 また、来たわよ。私はいつもそばにいるだけだけど、おじさんそれでいいの?

トントおじさん

 いいよ。いてくれるだけで、話す気持ちに自分を持っていけるから。何しろ、おじさん、人前で話すことはそうないから、ありがたいんだ。今日も聞いてね。おじさんの話。
 前回は、「日本一になりたいなら世界一を目指さなければならない」という話だった。
 その理由を前回話したけど、もう一つ理由が浮かんだんだ。
 
 人には、何かを目指すとかえってなかなかそこにたどり着けなくなるような心理的落とし穴がある、そのために、一歩先をみた考えが必要、というのが要点だ。
 
 「走者のパラドクス」というのがある。これはギリシャ時代のゼノンという人が示したという「アキレスと亀のパラドクス」をもとに、若干改作されたものだ。
 「アキレスがA地点からB地点まで真っすぐ走ろうとしている、とせよ。まず彼は、両者の中間点を走らなければならない。次に、四分の三の地点を走らなければならない。これが無限に続く。とすれば、アキレスは、B地点に達することができないが、これはおかしい。」
 (『A.W.ムーア著「無限 その哲学と数学」石村多門訳』講談社学術文庫、p83~84より)
 
  このパラドクスが示しているように、ある地点を目標と定めてしまうと、そこにいくまでに存在する無数の中間地点を通る必要があり、そのために無限の時間がかかってしまい、永遠にその目標地点には到達できない。
 このようにして、現実にはB地点にいけるのに、思考の上ではいけなくなってしまう。
 ゼノンのパラドクスについては、他にもあり、それらをどう理解したらよいのか、いろいろな人が議論している。
 ここでは、ともかく、人はそのように現実と合わない考えを一時的にせよ納得的に持ってしまう、という点に注目したい。そのような思考になると、心理的にもなかなか目標にはいけなくなる。
 
 そこで、考え方を変えて、目標を、行きたい地点のさらに先にある地点に定める。そうすると、行きたい地点は途中地点となって、単に経過する地点になる。経過するということはそこに到達してもいるわけだ。
 ある地点に行きたかったら(あるいはある状態になりたかったら)、その地点を経由していくことができる、その先にある地点や状態を目標に据えること。
 前回の話で言えば、つまり、日本一になりたかったら、その先の世界一を目標にすること。
 行きたい地点をそのまま目標に据えると、そこまでの道程を限りなく区切って到達を永遠の彼方に押しやってしまう心理と論理が知らずに生じてしまうからだ。
 一つ先の目標を設定することで、いつの間にか忍び込んでくるそうした心理的・思考的傾向をクリアーすることができる。
 
 もちろん、ある目標にいくのには、ともかく行動だ! 動くことだ! という解決はある。いや、それしかない? しかし、行動している間にも、人はつい考えてしまう。一旦考え込むと、上のような筋の通った、しかし現実と合わない理屈を作ることができてしまう。このパラドクス自体が、「現実の中で行動すること」と「思考」は全く別の事態で、違った法則の下にある、ということを示しているのかもしれない。
 
 ちなみに、実は、永遠に到着できないパラドクスの他に、永遠に出発できないパラドクスもある。ある地点に行くには、その前の半分の地点に行かなければならない。そこにいくためには、更にその前の半分の地点にいかなければならない。以下同じで、永遠に出発できない?というものだ。このパラドクスだと、目標を定める話とはうまくかみ合わないのでここでは取り上げなかった。どちらにしろ、考え方だからいいかと思ったわけだ。まあ、いい加減と言えばいい加減だが。
 
 とにかく、私たちの思考の中には、考えの過程では一応筋が通っているのに、どうも現実と合わなくなってしまうような仕組みがあるようだ。数学的・哲学的に表現されたパラドクスについては、いろいろ研究が進んでいるけど、私たちの日常に入りこんでいる似たような思考の傾向については、案外、気がつきにくい。
 
 以上、前回に続き、毛利元就の話から、浮かんだ考えだ。長くなってしまった。
 今日も聞いてくれてありがとう。

ポココ

 いいわよ。今回もなんかこじつけっぽいけど。それに、そうすると、世界一になるには、宇宙一を目指すということ? でも、世界一の人は、自分と戦っているみたいだし、強力なライバルと戦っているようにも思うし。まあ、あまり考えるとまた話がパラドクスしそうだからこの辺で。じゃあね。