トントさんと言葉のデッサン

人生で出会ういろいろな事を日常の言葉で描きたいと思っているブログです。

「信用」が大事である現実的理由

 
  先日のNHK朝のテレビドラマ「あさが来た」で主人公が借金を依頼するシーンを見て考えた。
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  あらためて考えると不思議な事、というのが世の中にはある。
 「人を信用する」というのもその一つだ。
 
 ある人が別の人から何かをもらったり、助けてもらう時、普通は、同等のものを引き換えに渡す、という物々交換のイメージがある。このイメージはわかりやすい。わかりやすいので、標準的な形としても受け入れやすい。
 
 ところが、人からお金を借りるという場合をあらためて考えてみると、そのイメージと違う形になっていることに気がつく。
 例えば、ある人が何か事業を始めたいが資金がない。そのための資金を誰かに借りなければならない。そしていざ借りることができる段階では、貸す人は具体的な資金を提供するが、借りる人は、基本的にはその場では何も渡さない。一方的に提供を受けるだけだ。約束証文を作ったり、利子を約束させることもあるが、それは将来の話だ。
 一般的な物々交換を基準に考えれば、これは、ひどく不公平でリスクのある交換だ。
一般的な形と違うこのような交換がなぜ成立するのだろう?
 

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 ここでキーとなるのが、「信用」という言葉、だと思う。
 現に、貸し手は、貸すことを了承する時に、こんなセリフを言うだろう。
「わかりました。あなたを信用してお金をお貸しましょう。」
「あなたの~を見込んでお貸しましょう」・・・
 まあ、他にも条件をつけるかもしれない。しかし、借り手が、この時点で引き換えに提供しているのは証文だけ。それ以外に具体的なものはない。(ここでは、何かの質を取るというようなケースは考えない。また、ATMから借金する場合も想定していない。あくまで、相対する人と人との交渉のシーンを考えている。)
 
 この時、この不公平な差を埋めているのが「信用」と考えられる。貸す人が、借りる人を信用するという行為である。
 お金と引き換えに交換されているのは、借りる人の将来の行動への信頼性、すなわち、借りる人の信用である。いわば、信用と引き換えにお金を得ているのだ。
 
 信用。それは、今、目に見える具体的な物ではない。将来のそれであって今のものではない。証文や約束にしても、それはあくまでも目に見えない将来を思い出させるための形に過ぎない。
 
  「あなたを信用しましょう」という事で、信用を理由にするにしても、全くの無条件というわけにはいかない。将来の返済を確実に示すような何等かの根拠を確認することが必要だ。信用するための根拠だ。貸し手は最終的なセリフを言う前に、その根拠を探し確認しようとするはずだ。プロの商人なら当然の事だ。
 
 その根拠として、将来お金を返すという具体的な行動と深く関連するような目に見える別の具体的な印、サインを探すことになる。それは、将来の具体的な返済が確からしく思えるようなものでなければならない。
 その人の才能・能力が根拠になるのではないか、という意見もあるだろうが、才能・能自身は目に見えない。才能や能力をうかがわせる具体的な証が必要だ。
  その根拠が確認できなければ、信用は成立せず、従って、貸すという決定もないだろう。
 
 具体的な根拠ということになれば、それは、日ごろから目にしたり耳にした振る舞い・言動の実績、実際に立ち会っての表情・態度、外見などになる。
 目に見える動きや外見の中から、将来の返済行動の確率が高いかどうか推測するのである。「返す」という言葉と将来の返済という行動を一致させる事が出来る人かどうか、が判断のポイントになる。
 つまり、現在、あるいはこれまでの本人の言う事と行う事の一致のあり様、あるいは社会常識と行動の一致のあり様を見て、その一致の実績度が高ければ、将来における言行一致の確度もまた高いと判断できることになるだろう。
 
 これを借り手からみれば、普段から、言行一致、倫理にあった行動を心がけておくということは、いざ困った時に、それが根拠になって、自己の信用を相手に確認してもらうことができ、それと引き換えに、当面の支援や現物を得ることができるという事になる。
 逆に言えば、日頃から、現行一致、倫理に合った行動をとっていない人は、この信用がなく、故にいざと言う時に、当面の支援や現物と交換するものがないことになる。
 日頃の言動による信用は、それ自体の形はないが、いざと言う時に具体的な物と交換できる確かな資産ということになる。
 
 しかし、自分は、そんな信用などしちめんどうくさい事など苦手だ。とにかく、お金をいっぱい持っていれば、信用など無くても充分に人の世は渡っていけるから必要ない、という考えもあるだろう。
 確かに、普段は多少の資金がそこそこあればそれで間に合う。しかし、大きな時代の変革期などには、手持ちの資産だけでは乗り切れない場合もある。必ず他人の力を借りなければならない。周りの助けが必要になる。そうしなければ切り抜けられないという時がある。他人に助けを求めなければならない時である。そういう時が人生においては誰にでも生じうる。そのような時に何が交換できるか、ということである。
 
 このような場合、信用しか残っていない。そして、信用は、それまでの日ごろの言行一致、常識的行動の実績が根拠になって、他人が認め与えてくれるものである。
 信用の根拠となるものがなければ信用は与えられず、助けも得られない。目の前の損得に執着するあまり、他人の気持ちや立場を軽視した行動を取ったりすれば、いざという時に信用の根拠がなく、大きな環境の変化の際に人の助けを得られず立ち行かなくなってしまうという事になりかねない。
 

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 考えてみれば、人と人の関係において、一個の主体は、別の主体の将来行動を完全に予知することはできない。なにしろ、直接に意思をコントロールすることができないということが他の主体の本質なのだから。そこで、他人には、原理的にどうしても、信用する他ないという余地が残ってしまう。 人同士の間では、信用という姿勢が不可避なのだ。
  信用とは、一方が直接的コントロールすることができない他方の人の将来行動を期待して、自分の具体的な何かを一方的に提供することでもある。
  つまるところ、環境の変化の中で生き延びていくために、日頃の誠実さ、実績によって醸成される「信用」は現実的な重要資産なのである。
 
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 まとめれば、次のように言えるだろう。
 
 〇 この社会においては、自分の手持ちの具体的資産だけでは足りず、必ず他人の助
   けが必要なタイミングが存在する。
 〇 その時に役に立つのが、信用である。人と人の間では、信用ということが重要な
   資産になる。
 〇 信用には根拠が必要である。
   根拠には、今及びこれまでの言動の言行一致の実績、見込みや才能があると思え
   る実績、などがある。
 〇 これが、日頃の行いが重要という一つの現実的理由である。
   特にこれまでの言動については、取り繕うことができないので、普段から心がけ
   る他ない。また、取り繕うことができない分だけ信用の根拠としての価値も高く
   なる。
 
 目に見える目先の損得に気を奪われるあまり、「信用」を何やら空気のように頼りないものに感じてその現実的な効用に気がつかないとすれば、それはもったいない話と言えよう。