トントさんと言葉のデッサン

人生で出会ういろいろな事を日常の言葉で描きたいと思っているブログです。

運転できるようになる事

ぽここ

 おじさん、今日も自動車の話?

トントおじさん

 そうだね。前回、そう約束してしまったからね。

 今日は、何かの技術を「身に着ける」ということについて話そうと思う。

 運転免許を取って初めて運転した時の事は今でも思い出すよ。あわてていたのか、気が付くと後ろのドアを開けっ放しで走っていた。はじめて運転するときは、音楽を聴きながら走るなんてとんでもなかったし、人から話かけられるのもダメだった。何しろ、自動車学校で教わった発進時のチェック項目を一つひとつ確認しているとそれが限りなく多いように感じて、とても人の話や音楽を聴く余裕などなかったのを鮮明に覚えている。

 それが、乗り続けて十数年たった今では、音楽は聞くし、人と話はすることも苦にならない。始めの時は、一つひとつ意識して指さし点検していたので、時間もかかったし何より緊張していた。それが、今はほとんど無意識に手早くやっている。身体が自動的に反応してやっている状態で、緊張もほとんどない。

 この経験から、私が学んだのは、何回も繰り返し行って慣れることによって身体の中に回路が出来上がり、いちいち意識して動かさなくても自動的に作動するようになる仕組みを私たちの身体が持っているということだ。

 一旦慣れてしまっている動作を改めて意識的に行おうとすると、やり方がわからないという経験はないだろうか?例えば、自分でネクタイをするときの動作だ。いつも難なくやるのに、いざ人に教えようと意識するとアレ?となることがある。

 繰り返すことで、人の身体はいちいち意識を通さずに身体が自動的に行うようになる。この状態が、「身に着いた」という状態なんだと思う。

 ここから、いくつかの事が考えられる。

1)何かを「身に着いた」状態にしたいと思うなら、その動作を繰り返さなければ実現できない、ということ。例えば、語学など。もちろん、繰り返すだけでなく、例えば語学では、聴きながら書くとか更に効果的な工夫を追加する事はあるかもしれないけれど。

2)何事も最初からできるということはない。繰り返して慣れて習熟しなければうまくはできないということ。ときどき、新しい事をはじめてやってみて、うまくいかなくて自分は才能がない、なんて思ってそれ以上やることを諦めてしまう人がいる。ここで、才能がないと考えるのは早計ということになる。繰り返しやらなければ身に着いた動作はできない。トレーニングしていないだけ。あるいは、慣れていないだけ。トレーニングや慣れるということによって身に着けることができる能力があり、今の自分と違う自分になることができる。

3)身体というのは、こういう柔軟性と可塑性を持っている。身体をあらかじめ機能が固定した機械のように考えるのは、身体の実態を反映しているとは言い難い。

4)そこで、あらためて思うのは、子供の頃からの躾け・トレーニングの重要性だ。うまく行うことが人生に有利な動作や習慣は、子供の頃にある程度強制的な躾けやトレーニングで身に着けておくと、年齢が進んだ段階では、まるで持って生まれた才能のように自然にできる。ところが、初期にそういうトレーニングがなく長じてそれをはじめて行なければならなくなった人の場合には、当然幼少時にトレーニングされていた人に比べるとうまくいかない。しかも、自然にできないことで才能がないと思ったり、コンプレックスを抱えるハンディを背負うことにもなる。家族の適切な教育的配慮は、思いの他効率的ということになる。

5)こう考えると、人が本能的なレベルで持っている性質も、あるいは、古い時代(それこそ狩猟時代)の経験から身体に自動化され組み込まれたものかも知れない、ということ。

6)こうして繰り返しのトレーニングや慣れによって身体化した動作は、しかし、身体の衰えによって、自分の意識とは別に身体機能の一部として確実に影響を受ける。意識ははっきりしているのに、今まで自動的に行っていた動作ができなくなる時期がやがてくる。

7)また、そうして身体化された動作や反応は、素早い動作によって効率的に機能するけれど、一方で、間違った対応のもとにもなってしまう。身体化された動作の利点は、素早く瞬間的に行えることだが、欠点としては、意識によるチェックが関わっていないので、状況の変化に適切に対応できない場合がありうることだ。

 

以上が、自動車の運転から、思いつくあれこれの一端だよ。でも、こんなこと大仰に言うことでもないかな。

ぽここ

 まあ、いいんじゃない。とにかく、いろいろお話すれば。 じゃあ。