トントさんと言葉のデッサン

人生で出会ういろいろな事を日常の言葉で描きたいと思っているブログです。

アクセルとブレーキが教えてくれること

ぽここ

 久しぶりです。今日はお題を考えてくるのを忘れちゃった。

トントおじさん

 いいよ。今日はおじさんが考えた「自動車の運転が教えてくれること」について話してみよう。

 自動車の運転は、おじさんが思うに人生に参考になることが結構ある、と感じる。

 その一つを今日は話そう。

 

アクセルとブレーキが教えてくれること

 自動車には、加速機能であるアクセルと減速機能であるブレーキがあることは知っていると思う。面白いと思うのは、二つの機能が全く逆の相反する機能だということ。

 もし、アクセルとブレーキを擬人化して人間のように口をきくようにしたとしよう。そこで、それぞれが自己主張・自己賛美に走ったとしたら、彼らは互いに相手の機能を否定し合う存在だから、さぞかしお互いを非難し合うだろう。アクセルにとっては促進することが仕事、ブレーキにとっては抑制することが仕事。ここで、どちらが正しい仕事かとか優れている仕事だとか言い出したら、それぞれ譲ることはできない。どちらも自己の存在の正当性を全く矛盾なく主張できるだろう。アクセルにとって加速する事は真理であり、ブレーキにとって減速することは真理である。

 しかし、このようにして両方が譲らなければ、車は運行できないか、事故を起こしてしまう。

 ここから、私が引き出せると思う点は次だ。少々強引だけれど。

 

- 組織の運営には、相反する機能が「ともに」必要である、ということ。「どちらが」ではなく、「どちらも」と考えることが必要ということ。

- 主張が相反する、或は違うというだけで、どちらが正しいとか優れているとか問うことがナンセンスになる場合がありうること。

- 自己的な真理を主張し合うこと(つまり、どんな場合も自己の機能を発揮すべきだ、と主張すること)は、例え理屈の上で矛盾がないとしても、それを包含する大きなシステムと環境との適合には障害となる場合があるということ。

- 自動車外部の状況環境の認識とそれによる司令(運転手)のコントロールの存在が重要であること。

- アクセルとブレーキの自己主張を裁定する基準があるとすれば、それは、その時点で外界状況へ適合するかどうか、現実に適合するかどうか、であるということ。

- 真理には、アクセルやブレーキそれぞれの真理とは別に、車を適切に運転するという点からのより大きな真理があるのかもしれない、ということ。

 

 このモデルを通して、社会でいろいろな意見が交わされている状況を見てみよう。そうすると、それぞれに異なる心配と懸念を抱き、その点からある部分を強調しており、どちらも一面で現実を反映している限りで理屈を整えている。だから、ここで重要なのは、互いの思いの正しさよりも、「現実に適合しているかどうか」という現実的視点からの検討ではないかということ。これが、アクセルとブレーキの寓話から多少強引に私が得た見方だ。もっとも、何が現実かの認識は、これまた、なかなか問題含みで難しいけれど。

ぽここ

 ふーーん。

 それはともかく、自動車の教訓は他にもいくつかありそうだから、次回もそれにしたら。

 じゃあね。