トントさんと言葉のデッサン

人生で出会ういろいろな事を日常の言葉で描きたいと思っているブログです。

トントおじさん、難しく話す

ぽここ

 久しぶりね。おじさん、相変わらずパっとしないわね。

 ところで、先日言った通りお題をあげるから、それについて答えてみて。

 最近、ある新聞で、「自分の国の文化や言語を生かすことは、英語にない発想の研  

    究につながる」という趣旨の文章を見かけたわ。小さな記事なので、理由までは書

    いてなかったけど、どういう筋道で考えるとそう言えるか、おじさんの考えを聞

   かせて。

トントおじさん

 なるほど。ありがとう。私も「言語と思考の関係」には以前から興味があったの

   で、考えてみよう。

 おじさんの考えはこうだ。

 *********

 

    英語・日本語といった言語ごとに文法は微妙に違う。

 言語もそれぞれの国の人々が作り出したものだから、その作り方にはそれぞれの違

    った環境や経験が反映されているはず。

    つまり、文がどんな要素から構成されているか、どんな文型があるか、といった文  

    法の枠組みには、それぞれの環境や経験に対応した人々の考え方、世界の認識の仕

    方、行動の仕方が反映されていると考えられる。

  そうすると、言語とその文法の違いは、その人々の環境や経験・社会の成り立ち

   に対応しており、その言語で考えることは、その文法で考えることであり、その文法

 で考えることは、その人々の考え方、認識の仕方、行動の仕方の枠組みの中で考え

 るということになる。

  仮にそれを前提に考えてみると、例えば英語を使って英語圏の研究を読んだり聞

 いたりすることは、英語固有の考え方の枠の中で、思考や行為を行っていると言う

 ことになる。これは、別な方向から考えれば、英語の枠組みからは得られない思考

 や行為の在り方を新たに求めようとすれば、それは英語以外の言語で考えるしかな

 い、ということになる。

  そして我々の前には、使い慣れた母国語と使い慣れていない外国語がある。

 それぞれの言語には、固有の思考の枠組みと発想が発見できるとすれば、それは、

 使い慣れていない外国語で思考するよりも身体や社会と一体化し使い慣れた母国

 で深く反省・思考する方が、その可能性が高いはず。   

  外国語は、使い慣れていないばかりか、それが一体となっているはずの外国の文

 化・生活・伝統も知らない状況だから、母国語として話す人と同等のレベルになる

 には大変な努力が必要となるから。

  そういうわけで、自分の国の文化や言語を生かすことは、英語にない発想の研究

 につながる。

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  まあ、これは幾つかの前提の上での推論だから、事実と合致しているかわからな

  いし、その発言をした人の考えとも関係はないけど、一つのたたき台にはなる

  と思う。

  反論の余地もあるよ。例えば、個々の言語の表面的な違いを超えた普遍的な文法

  がある、とか、あるいは、いわゆる「灯台元暗し」で母国語よりも外国語の方が

  かえって新しい知見に気がつきやす面がある、などだ。

  

  ちなみに、現在、日本では、自然科学も人文・社会科学でも英語文献による読解

 と表現が主だけれど、上のように考えると、私たちには3つの方向性があると考え

 られる。
  
  第一 英語の発想・文脈の中で突き詰めて考えを展開することで、その言語の思

     考枠でもまだ充分に展開されていなかった発想・知見を得ようとする  

     道。 

  第二 思考は日本語で行うが、英語の思考枠を学びその知的刺激を受けること

     で、日本語の思考枠の中でまだ展開されていなかった新しい知見を得よう

     とする道。翻訳や外国文化の移入というのは、この道と考えられる。

  第三 まったく日本語による枠組みの中でのみで探究を続け、日本語の枠組みの

     中で他言語では得られない固有で新しい発想・着想による知見を求めよう

     とする道。

  ※  但し、日本語の思考の枠内から着想された新しい知見は、言葉のかたちで

    あれ物の形であれなんであれ外国の人に理解してもらえる形でなければ評価

    の対象にすらならないので意味がない。

     独自なのは着想・発想の部分であって、知見成果の内容そのものは世界に

    理解される形でなければならない。

 ぽここ

  なるほど。でも、最初だから仕方ないけど、どうも話は長いし、言葉も堅いわ

  ね。そろそろ時間だから帰るわ。またくるから、いろいろ考えてね。じゃあ。