トントさんと言葉のデッサン

人生で出会ういろいろな事を日常の言葉で描きたいと思っているブログです。

情感の共有と会話

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・ある人がこんな事を言っていた。
 
  日本では、外で近所の人に出会うと「あら、今日はどちらかにお出かけ?」と声をかけることがある。でもアメリカなどではこのようにプライベートな事に立ち入って聞くのは失礼に当たるということだ。
 しかし、日本でも、別にどこに行くかをどうしても聞きたいわけでもない。単に声をかける挨拶なのだ。だから答える方も、「ちょっとそこまで」とか「はい、そうなんですよ。今日は天気がいいですね。」とか言えばそれですんでしまう。
 人同士の会話は、何かしら音声と表情を交換できれば、話の内容はほとんど関係ない。会話で交換できるという形式が重要な場合もあるのだ
 
これを聞いて私も思った。
 
 言葉の意味や正確さをことさら詮索することは重要ではない場合がある。交互に何等かの音を発しそれに応じた笑顔の表情や手振り・身振りをかわすことを互いに楽しみ、互いの存在を慈しみ、確認できればそれで充分だという場合である。
 言葉の意味は、そのような情感ゲームから得られる幸福な共有感覚の享受から見れば二の次なのだ。また、話す言葉が会話として辻褄があわなくても、その発声と表情、手振り・身振りが本人の希望や感情を示していることもある。
 例え、病気で言葉の機能が衰えても、情感の機能が健在ならばまだまだコミュニケ―ションは成り立つ。
 
 考えてみれば、昔から、言葉や会話で私たちが求め、そして得ていたものは、そうした他の人との情感の交換・共有感覚の方が大きかったのかもしれない。言葉の意味や内容に一見こだわっているように見えてもそれは会話を始め、続けるための方便の一つだったのかもしれない。
 
 言葉は、その音や語句の外にある対象を意味として指し示し関連付ける働きを持っている。それを真正面から追及しようとする場は「議論の場」と言えるだろう。「情感の共有」を目的とした言葉の使用とは区別して扱われるべきかもしれない。
 
 鈍感な私には、ときどき、どちらの目的ルールで話が進んでいるのかわからず混乱することもあるが。