道具について考えた3つの事
道具のイメージは、人間が何か外界対象に作用を及ぼすとき、生身の身体以外に使うものといってよいだろう。
そのイメージを思い浮かべているだけでは特にどうという話もない。しかし、道具が他の事柄とどう関係しているか、を具体的に考えてみると、道具についての教訓をいくつか思いつく事ができる。
一つ目は、道具とストレスの関係だ。
最近、私は、片手で操作できるハンディなバッテリー式掃除機を買って、その掃除機を毎日使っている。その掃除機が取り立てて好きなわけではない。ただ、扱いやすいのだ。もちろん、六畳前後のさほど広くない部屋がいくつあるだけの狭い空間が掃除対象だからということもある。ホースがついてコードがコンセントとつながっている通常の掃除機もあるが、今はほとんど使わない。掃除をしたいと思った時点で、すぐ手を伸ばせばそのままワンアクションで作業開始ができる。重い器機を取りにいって、運んできて、コンセントにつないで、ホースを伸ばして、と言った一連の動きをする必要がない。2つの掃除機は、同じ機能を持つ道具である。
しかし、一方は、作業が一挙にはかどり、もう一方は、作業が進まない。掃除しなければといけないのにしない。その事から生じる無意識のストレスまである。掃除機は一つの例で、他にも似たような体験がある。
そこで、こう言える。
何かの物事がなかなかはかどらないのは、ぴったりとあった道具を私がまだ手にしていないからだ。自分の性格の所為だけではないのだ、と。
これは言い訳でなく実感として言える。
二つ目は、道具とチャレンジとの関係についてだ。
料理を始めたときの話だ。
私は、包丁とカッター、まな板を用意した。包丁は、先が尖っていないもの。カッターは皮をむくためのもの。まな板は、軽くて扱いやすいもの。これらは、いずれも、自分の考えと好みで用意したもの。他の人には合わないだろう。
しかし、このようにマイツールを用意すると、不思議と、料理というはじめて取り組む作業?にも楽しみながら続けいる自分を発見する。だから、はじめて料理に挑戦する人がいたら、包丁など道具は自分の考えで自分にあったものを用意することをアドバイスしたい、とまだ始めたばかりの初心者がおこがましくも先走って想像してしまう。
でも、次のまとめをする事はできる。
道具を自分なりに選んで用意することで、初めての事でも楽しんでできる。
この実感は、確かにあった。
三つ目は、道具と専門家との関係だ。
専門家が専門家であるのは、何を持っているからなのだろうか? 何があるから専門家と言われるのだろうか? と、以前考えた事がある。
専門的知識や技能を持っているのが専門家、と漠然と思っていた。専門という意味には、専門の知識分野を持つということがある。なんであれ、個別の事柄について集中的に研究すれば、それは専門家となることができる一つの条件となる。
しかし、ある時、思いついた。
専門家とは、専門の道具を使いこなしている人でもあるのではないか、と。
そう言えば、法曹関係者は、六法全書や法律書、を使いこなしている。
今時の科学技術の研究者や技術者は、専門の機器を駆使している。専門の道具の使い方に習熟している。
教師はどうか?教師になるために、慣れ親しんだ道具は何か?人生の教師は、別として、学科の教師は、やはり、専門教科についての書籍や出版物に違いない。
専門知識といえども、生まれつき備わっている訳ではない。何らかの物理的な道具のお世話になっているはずだから、当然だ。
また、専門の大がかりな重機を扱っている人も、その意味で専門家と言ってよい。
ということは、専門に扱う道具が高度・複雑で使いこなすのが困難であればあるほど、それを扱う事ができる人は、高度な専門家としての条件を持っていると言えるかもしれない。少なくとも、専門家にとって、道具は無視できない重要な要素に違いない。
このことから、結論できるのは、
何かの専門家になりたかったら、専門となる道具の使い方に習熟するのが一つの方法
かもしれない。少なくとも、そう意識してやってみても損はないのではないか。
※ ところで、ここまでは、道具は、物理的なイメージのものを想定していた。ここまで来て、外国語の専門家には、物理的、道具的背景があるだろうか?つまり、その専門性の獲得に際してどんな専門的な物理的条件があるか、ということが疑問になった。
特に、特別な物理的道具をすぐに思いつかない。自身の生身の身体そのものも、道具として見立てれば、それは答になるかもしれないが、ここでの話を超えることになるだろう。だから、ここでの専門家もいわゆる物理的道具が比較的はっきりする専門家ということになるかもしれない。